えむと、メモランダム

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『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』を読みました

死を生きた人びと

2018年63冊目の読了は、『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』(著 小堀鷗一郎/みすず書房 初版2018年5月1日)です。

今年6月、NHKのBSで「在宅死 “死に際の医療”200日の記録」というドキュメンタリー番組が放送されました。

内容は、埼玉県新座市にある病院の在宅医療チームの活動を追ったもの。番組では、103歳の母親を夜通し介護する家族、老老介護で共倒れになりそうな夫婦、末期がんの父親を看病する全盲の娘、がんで先立つ娘の世話をする年老いた母親など数組の家族が登場したのですが、厳しい状況の中でも何とかそれを乗り越えようとする家族の姿と、患者と家族に寄り添い、安らかな死を模索する医師の姿に目が離せませんでした。

この番組に登場した二人の医師のうちの一人が、本書の著者であり、森鷗外の孫にあたる小堀氏。東大病院の外科医であった小堀氏は、定年後に訪問診療医となり、在宅医療に携わるようになったそうです。番組から伝わる小堀氏の人柄や投げかける言葉に何とも言えないぬくもりがあり、患者や家族の救いになっているのがとても印象的でした。

本書は、その小堀氏が在宅医療で立ち会った355人の看取りの中から42の事例を示し、人はどこでどうやって死ぬのが幸せなのか、「望ましい死」のあり方を私たちに問いかけ、また終末期医療をめぐる様々な課題を明らかにしたものです。

病院で死ぬことは、今はごく普通のことですが、本書によれば在宅死と病院死が逆転したのは今から40年ほど前。医療技術の進歩が病院死の増加につながった一方で、「死は敗北」といった意識が医療関係者の中で生まれ、「延命至上主義」の風潮が広まったそうです。また病院死の増加は、私たち自身の死に対する感覚を希薄にさせ、私たちは死を遠ざけるようになりました。

確かに、死は必ず訪れるものでありながら、元気なときに自分の死に方まで考えることはありません。自宅で最期を迎えられたらと漠然と思っていても、病院で死ぬことについて、本人も家族も疑問を持つことはないでしょう。

ところが本書を読むと、人それぞれ生き方が異なるように、死の迎え方も人それぞれであることがよくわかります。病院で死ぬのが悪いということではありませんが、病院のベッドで、同じような延命処置を施され、モニターに囲まれて亡くなるのが幸せといえるのか、考えざるを得ませんでした。

NHKの番組でも、全盲の娘さんが自分でうどんを作り、父親がそれこそ1本、2本と口にする場面があって、今でも心に残っているのですが、そんな父と娘のかけがえのない時間は、入院していては決して過ごすことはできないものです。

もっとも、自宅で平穏な最期を迎えたいという願いは、簡単に叶うものではありません。在宅死のためには、医療関係者や家族の理解、しっかりとした医療体制、行政の支援など解決すべき課題は多く、また家族の負担考えれば、「自宅で死にたい」とは言い出しにくいのも事実でしょう。理想と現実のギャップは大きいものがあります。

日本は、2025年には65歳以上の高齢者が人口の30%を占め、年間の死亡者数が150万人を超える多死社会を迎えます。国は医療費の抑制をねらい、終末期医療の場を病院から自宅に移そうとしていますが、それが私たちの“幸せな死”につながっていくのか、定かではありません。

高齢者の人口爆発が迫る中、“国の都合で在宅死が増えただけ”に終わらないようにするためには、在宅死にせよ病院死にせよ「望ましい死」はどういうものか社会全体で考えていく必要があるのだと思います。

読後感(考えさせられた)