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『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』を読みました

民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書)

2020年35冊目の読書レポートは『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(著 藤野裕子/中公新書/初版2020年8月25日)。書店で目にして手に取りました。

本書は、東京女子大学現代教養学部准教授で歴史学者の著者が、近代日本で起きた民衆暴力(=人びとによる物理的な暴力行使)を取り上げ、その歴史的な意味を考察するもの。

まず、江戸時代の民衆暴力「百姓一揆」について実態を解説。

次いで、「新政府反対一揆」、「秩父事件」、「日比谷焼き打ち事件」、「関東大震災の朝鮮人虐殺」の四つの民衆暴力を取り上げ、事件の背景や概要、政治・社会に及ぼした影響などについて明らかにしていきます。

「百姓一揆」には、領主・農民とも“作法”があったが、作法のもとになった「仁政イデオロギー」が次第に機能不全となり、人々の解放願望と相まって、幕末には暴力(打ちこわし)をともなう世直し一揆が多発した。

「新政府反対一揆」は、明治新政府の近代化政策への反発や不安が生み出しもので、被差別部落も標的にされたが、一揆の鎮圧を通して、国家の暴力の正当性が民衆から認知された。

「秩父事件」は、自由民権運動という側面だけでは捉えられず、事件には明治維新後の生活困窮と江戸時代にあった“仁政”が消失した怒りがあった。

「日比谷焼き打ち事件」は、独特の価値観と社会的環境の影響から男性労働者に溜まったエネルギーが、ポーツマス条約反対集会をきっかけに噴き上がったもので、その後も政治集会が引き金となって都市暴動が頻発した。

「関東大震災の朝鮮人虐殺」は、朝鮮で起きた三・一運動を発端として、「テロリスト」のイメージが朝鮮人と結びつけられたことが、“デマ”に始まる一連の事件の背景にあった。

そして戒厳令の施行が、朝鮮人の暴動が現実のものであると思わせ、朝鮮人を殺害することのためらいが払拭されてしまい、さらに男性労働者のもつ「男らしさ」や「義侠心」が、行動に拍車をかけた。。

民衆による暴力・暴動という切り口で近代日本の歩みを辿るというのは、もちろん初めて。

時代の動きを、今までにない視点から眺めるというのは新鮮でしたが、事件の根底には政治や社会への怒り、見えない恐怖への不安といった普遍的なものが存在することにも気づかされました。

一方、気になったのは、権力(力のある者)に服従・追随することで、責任から解放された感じになり、「自分の行いは正義だ」と思い込むことの怖さ。

ひとりよがりの正義感は、民衆から民衆への暴力にもなりかねず、それはコロナ禍で登場した「自粛警察」やネットに溢れる“言葉の暴力”を思い起こさせます。

「民衆暴力」は決して遠い昔の話ではありません。