えむと、メモランダム

読んだ本と出来事あれこれ

『親父の納棺』を読みました。

読書ノート2022年No.18は、『親父の納棺』(著 柳瀬博一/絵 日暮えむ/幻冬舎/初版2022年8月5日)

私の父が亡くなったのは4年前のこと。まだ寝ていた日曜日の早朝、実家の近くに住む妹が泣きながら電話してきたことは忘れられません。

取るものも取り敢えず新幹線に飛び乗り、実家に駆け付けたのですが、あまりに突然だったうえに、葬儀会社との打ち合わせ、親戚や近所への連絡、通夜・告別式、役所や銀行の手続と慌ただしく時間が過ぎて行き、亡くなったという実感は、なかなか湧いてきませんでした。

本書は、日経BP社を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院の教授である著者が、自身の父親の「納棺」を手伝ったときの体験を通し、家族の死について考えたエッセイ。

付章として、納棺師になるための学校「おくり人アカデミー」代表の木村光希さんと、養老孟司さんのインタビューも収録されています。

著者の父親が亡くなったのは昨年5月のことでした。コロナ禍で、葬儀は家族5人だけで行うことになったのですが、納棺のとき、著者が「すずさん」と名付けた若い女性納棺師から、「父親の着替えを手伝わないか」と声をかけられます。

著者は、「死体をさわるのは自分の仕事ではない」と思っていたため、予想外の展開に戸惑うものの、すずさんの「かろやか」な声に押され、納棺を手伝うことに。

最初こそ「おっかない」と感じていましたが、すずさんのアドバイスを受けながら、父親にパンツをはかせ、シャツを着せているうちに、手の感覚は「さわる」から「ふれる」に変化。

父親との間にあった「透明な壁」も消滅し、納棺は単なる儀式や死化粧の施しではなく、支度をしながら死者と対話することで、「死者のケア」となり、「遺された者のケア」になることに気づきます。

死者のケアが、遺族のケアになるというのは、不思議な感覚ですが、家で死ぬことが当たり前の時代は、家族が死者の世話をするのは珍しくなかったはず。親しい人との別れとは、本来そうあるべきなのかもしれません。

ところが今の時代、死ぬのは病院で、葬儀は葬祭場で行うのが一般的。しかも死者の“エンゼルケア”は葬儀会社の仕事とみなされ、それどころか、納棺という仕事に対して、思い込みや偏見さえ存在します。

これでは対話どころではなく、ケアを体感することもできません。

著者は、死んだ父親の手を握ったとき、そのやわらかさに驚き、やわらかな手から、父親との記憶が走馬灯のように蘇ったと語っています。

恐らく、ケアし、ケアされたからだと思いますが、残念ながら、私にはそんな機会はなく、貴重な体験をした著者が羨ましく思えました。

それにしても、プロとはいえ、見た目だけではなく、亡くなった人が“痛がらないよう”に着替えさせ、着心地まで考える、すずさんの心配りには感心するばかり。

すずさんの優しく、凛とした姿が、目に浮かぶようでした。