えむと、メモランダム

読み散らした本と出来事あれこれ

「NHK交響楽団定期公演 第1922回」

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昨夜、「NHK交響楽団定期公演 第1922回(10月Cプログラム)」があり、NHKホールに足を運びました。

指揮はトゥガン・ソヒエフ。プログラムの前半は、バラキレフ(リャプノーフ編)の『東洋風の幻想曲「イスラメイ」』とニコラ・アンゲリッシュのピアノで、ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲 』

「イスラメイ」は、直木賞を受賞した『蜜蜂と遠雷』で主人公の一人がピアノコンクールの予選で弾いた曲。オーケストラ版は初めて聴きましたが、ピアノ原版よりさらに色彩豊かで、エキゾチックでした。

『パガニーニの主題による狂詩曲 』では、しっかりとしたタッチで、端正に弾くアンゲリッシュさんのピアノが印象的。立った音、さすがのテクニックで、ステージから目を離せず。

有名な第18変奏では、N響の弦の響きと相まって、情感豊かな音色が胸に迫ってきました。

アンゲリッシュさんのアンコール曲は、ショパンのマズルカ作品63の2。パガニーニとはまた違って、透明感のある音が響いてきました。

プログラムの後半は、チャイコフスキーの『交響曲 第4番』。CDではよく聴く曲のひとつです。

ソヒエフさんの指揮は、決して派手ではなく、正統派といった感じ。昨日も、オーケストラを「鳴らす」というより、メリハリを効かせながら、オーケストラの音を湧き出させていました。

昨日は、第1楽章、第4楽章の“管”も素晴らしく、躍動していましたが、印象に残ったのは、第2楽章の弦の響き。少しゆっくりとしたテンポの演奏は、物憂い感じをさら深めるもので、心に染み入ってきました。

Eテレの「クラシック音楽館」で今日の演奏会が放送されたら、何としても見なければなりません。

『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』を読みました

つけびの村  噂が5人を殺したのか?

今年54冊目の読書レポートは、『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』(著 高橋ユキ/晶文社 初版2019年9月25日)。書店のSNSで本書のことを知り、買い求めました。

2013年7月、山口県周南市の限界集落で、8世帯12人の住人のうち5人が殺害され、2軒が放火されるという凄惨な事件が発生。

しかも犯人の自宅の窓には、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と書かれた謎めいた張り紙が貼られていて、その不気味さから「平成の八つ墓村」などと呼ばれ世間を騒がせました。

本書は、‟傍聴ライター”として活躍する著者が、この「山口連続殺人放火事件」の真相に追っていくルポルタージュ。本書刊行前に、著者が「note」に投稿した記事に加筆し、まとめたものです。

著者が事件の取材を始めたきっかけは、別のテーマの取材のためこの地を訪れたときに、村人から事件の噂を聞いたこと。

著者は、噂の真偽を確かめるため、何度も現地に赴いて取材を重ね、犯人の生い立ちを調べ、さらに拘置所にも行き犯人と面会します。

すると、裁判では犯人の妄想だとされた村人たちの噂話が、実際にあったことが明らかに。

著者は、この地区での噂話(悪口)の充満が、犯人の妄想性障害を悪化させた可能性があり、噂話と犯行は無関係ではないと確信します。

物語の前半、著者の取材によって次第に核心に近づいていく様子は、ミステリーの謎解きのよう。緊迫感も漂い、面白く読みました。

ただ、印象に残ったのは事件そのものより、噂話を面白がり、表向きは何事もないように装いながら陰では悪口を言い合う住人たちの姿です。

悪気はないのでしょうが、人を傷つけているという意識も希薄。まさか噂話が殺人事件に関係しているなどとは、思ってもいないことでしょう。

しかし、それはここだけの問題とは言えません。ネットにあふれるフェイクや誹謗・中傷。それを煽り広める匿名の人たちと、名指しされ傷つく人。限界集落で起きていることが、私たちの身近なところでも存在していることに気づかされます。

事件の犯人は、精神障害を認められることなく、最高裁で死刑が確定しました。被害者の遺族からすれば、当然の判決かもしれません。

けれど、本書を読む限り、精神障害はなかったと言い切れるのか、妄想だけでこれだけの事件を起こせるのか、精神障害があったと認められた裁判とどこが違うのか、モヤモヤしたものは残ったままです。

犯人を処罰して終わりではなく、犯行に及んだ真の理由が明らかにならないと、同じような事件がまた日本のどこかで起きかねない。

心配しすぎかもしれませんが、そんな思いが頭をよぎりました。

『叱られ、愛され、大相撲!「国技」と「興行」の一〇〇年史』を読みました

叱られ、愛され、大相撲! 「国技」と「興行」の一〇〇年史 (講談社選書メチエ 709)

今年53冊目の読書レポートは、『叱られ、愛され、大相撲!「国技」と「興行」の一〇〇年史』(著 胎中千鶴/講談社選書メチエ 初版2019年9月10日)。書店で目にして、手に取りました。

著者は台湾史が専攻の歴史学者。大相撲の鶴竜のファンで、「スー女」(相撲女子)でもあるそうです。

著者によると、現在の日本相撲協会は、「興行」と「国技」の板挟みで困り続けていて、「叱られ体質」にあるとのこと。

確かに、力士や親方が“事件”を起こし、相撲ファンのみならず多くの国民から非難され、謝罪に追われるというのは、珍しいことではありません。

ただし、それは今に始まったことではなく、1925年に大日本相撲協会(現在の日本相撲協会の前身)が成立し、「賜杯」というお墨付きを得て以来90年以上に渡りずっと続いているのだそうです。

本書は、「興行」と「国技」という二つの側面から、大相撲の100年の歩みを綴ったもの。

国民的な興行スポーツとして愛される一方で、「相撲は国技」と標榜したがゆえに、常に厳しい視線を浴びて叱られてきた姿が、著者が掘り起こしたエピソードを通して明らかにされていきます。

登場するのは、幼い頃から、大相撲を愛してやまなかった昭和天皇。

日本の植民地時代に、大阪相撲を中心に盛んに行われた台湾巡業。

「相撲体操」を考案し、全国の児童に向け普及に努めた謎の相撲教師。

‟頭脳派力士”として、講演や執筆活動といった文化的活動を精力的に行った関脇「笠置山」。

中国大陸で戦う日本兵のために、精神的・身体的負担を抱えながら行われた慰問相撲。

“進駐軍の娯楽”とみなされたために、敗戦の混乱からいち早く実現した復活。

力士の華やかな活躍場面などほとんどなく、戦前の、しかもよほどの相撲通でなければ知らないような話が大半。

しかし、そんなサイドストーリー的な話の中で、興行と国技の間で右往左往する大相撲の姿が浮き彫りになっていて、興味深く読みました。

面白かったのは、慰問地の兵隊たちが慰問相撲に期待したのが、粛々とした真剣勝負ではなく、「初っ切り」や「飛び入り」といった娯楽性のあるものだったということ。

今でも、「押し出し」や「はたきこみ」といった技で、あっけなく勝負がつくとがっかりしますが、何はともあれ“楽しいこと”が相撲の本質かもしれません。

暴力沙汰や無気力相撲はもちろん許されることではありません。けれど力士達に「国技」という裃を着せて、「相撲道」を極めさせるというのは、何だかとても窮屈そう。

それよりも、一生懸命稽古を積んで、手に汗握る力相撲をふんだんに見せてほしいものです。