えむと、メモランダム

読み散らした本と出来事あれこれ

『世界は五反田から始まった』を読みました。

読書ノート2022年No.19は、『世界は五反田から始まった』(著 星野博美/ゲンロン叢書/装丁 名久井直子/初版2022年7月10日)。地元の書店(くまざわ書店武蔵小金井北口店)で購入したサイン本を読みました。

五反田という地名で頭に浮かぶのは、駅のホームからも見える相生坂のこと。サラリーマン時代、重いカバンを持って坂を歩いたことが思い出されます。

著者が生まれ育ったのは、五反田駅からすぐ先の戸越銀座。実家は、祖父の代から続く小さな町工場を営んでいました。

本書は、一家の生活圏であり、著者が「大五反田」と名付けた五反田駅を中心とした半径1.5キロ圏(戸越銀座はその最南端)の、昭和初期から現在に至る歴史を振り返るもの。

祖父が遺した手記を糸口として、また様々な資料や、幼い頃の記憶も探りながら、自身のファミリーヒストリーを語り、そこから浮かび上がる大五反田の移り変わりと、戦争に翻弄された人々の姿を、五反田への思いを込めて綴っています。

本書によれば、第一次大戦後、大五反田は工業地帯として急速に発展したそうです。
大工場の下請けを行う町工場も増え続け、著者の祖父が、昭和11年に戸越銀座に構えた金属部品の工場も、その一つということになります。

今、戸越銀座の次に出てくる言葉は“商店街”。“町工場”のイメージは湧いてきません。

それだけに、本書で紹介されている一家の暮らしぶりは興味深く、大五反田が町工場に支えられた「軍需城下町」であったことには、驚かされました。

また、小林多喜二、宮本百合子のエピソードを通して描かれる、五反田界隈の工場で働く低賃金労働者(無産者)の人たち。

千人を超える人たちが「転業開拓団」として満州に渡ったものの、集団自決が起きて、わずか50数人しか生還できなかった武蔵小山商店街の悲劇。

「軍需城下町」だったせいで、東京大空襲の2倍の焼夷弾が投下され、星野家の住居も工場も焼け出されてしまった城南空襲。

初めて知った大五反田の歴史のひとコマは、心を捉えます。

そして、本書の内容とともに強く印象に残ったのは、家族の営みから地域の歴史を深掘りし、そこに日本の歴史を重ね、さらにこれから先を見通すという、著者の深い洞察。

とても著者のようにはいきませんが、自分の足元をよく調べたら、知らなかった世界がもっと見えてきそうで、自分自身の「大五反田」を探訪したくなりました。

ところで著者は、大五反田の戦争の惨禍を目の当たりにして、「死ぬ方法」ではなく、「生きる方法」についても考えを巡らせています。

大五反田を焼野原にした城南空襲の犠牲者は252名。10万人以上ともいわれる東京大空襲の犠牲者に比べて、格段に少なかったのは、法律で義務とされていた「消火」をするより、他人の目を気にせず、自分の頭で考えて、「逃げること」を優先した人が多かったからだそうです。

空気に流されず冷静に考える。危険を感じたら逃げる。それは、著者の祖父の生き方に通じるもので、祖父から著者への教えでもあるのですが、著者に限らず、胸に留めておくべきことに違いありません。

NHK交響楽団「第1962回定期公演」

昨日、NHK交響楽団「第1962回定期公演(Aプログラム)」があり、NHKホールに足を運びました。

2022-2023年シーズンの幕開けとなる公演ですが、ファビオ・ルイージさんの首席指揮者就任、NHKホール改修後初めての定演ということで、何か特別な感じがしました。

演奏前に、ルイージさんはもちろん、コンサートマスターの篠崎さんにも盛大な拍手が送られたのは、胸の高鳴りを感じた人が多かったからかもしれません。

新シーズン最初の演目は、ヴェルディの『レクイエム』。
ソリストは、ヒブラ・ゲルズマーワ(ソプラノ)、オレシア・ペトロヴァ(メゾ・ソプラノ)、ルネ・バルベラ(テノール)、ヨン・グァンチョル(バス)。合唱は新国立劇場合唱団。

シーズン幕開けの最初の曲が「レクイエム」と知ったときは、ちょっと意外な感じがしました。

ところがルイージさんによれば、この作品は「哀悼についての作品ではなく、私たちの人生の一部である死について前向きな気持ちを持つことができる作品」であり「悲しい作品ではなく、希望と美に満ちた作品」であるとのこと。

「レクイエム」の持つイメージが、すっかり変わったのですが、ソリスト、N響、合唱団が一体となった渾身の演奏は、まさにその言葉どおりのもの。

劇的で力強い音の響きに心は高揚し、静謐な歌声は心に沁み渡り、ステージを見つめながら、身じろぎもせず聞き入っていました。

圧巻の演奏に魅了され、終演後の拍手は鳴り止やまず。繰り返されたカーテンコールもいつまでも心に残りそうです。

ところで、今シーズンから、カーテンコールの様子を写真撮影していいことになりました。なかなか思い切ったものですが、最後にルイージさん、篠崎さん、郷古さん3人の写真が撮れたのは、新しい試みのおかげです。

 

『親父の納棺』を読みました。

読書ノート2022年No.18は、『親父の納棺』(著 柳瀬博一/絵 日暮えむ/幻冬舎/初版2022年8月5日)

私の父が亡くなったのは4年前のこと。まだ寝ていた日曜日の早朝、実家の近くに住む妹が泣きながら電話してきたことは忘れられません。

取るものも取り敢えず新幹線に飛び乗り、実家に駆け付けたのですが、あまりに突然だったうえに、葬儀会社との打ち合わせ、親戚や近所への連絡、通夜・告別式、役所や銀行の手続と慌ただしく時間が過ぎて行き、亡くなったという実感は、なかなか湧いてきませんでした。

本書は、日経BP社を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院の教授である著者が、自身の父親の「納棺」を手伝ったときの体験を通し、家族の死について考えたエッセイ。

付章として、納棺師になるための学校「おくり人アカデミー」代表の木村光希さんと、養老孟司さんのインタビューも収録されています。

著者の父親が亡くなったのは昨年5月のことでした。コロナ禍で、葬儀は家族5人だけで行うことになったのですが、納棺のとき、著者が「すずさん」と名付けた若い女性納棺師から、「父親の着替えを手伝わないか」と声をかけられます。

著者は、「死体をさわるのは自分の仕事ではない」と思っていたため、予想外の展開に戸惑うものの、すずさんの「かろやか」な声に押され、納棺を手伝うことに。

最初こそ「おっかない」と感じていましたが、すずさんのアドバイスを受けながら、父親にパンツをはかせ、シャツを着せているうちに、手の感覚は「さわる」から「ふれる」に変化。

父親との間にあった「透明な壁」も消滅し、納棺は単なる儀式や死化粧の施しではなく、支度をしながら死者と対話することで、「死者のケア」となり、「遺された者のケア」になることに気づきます。

死者のケアが、遺族のケアになるというのは、不思議な感覚ですが、家で死ぬことが当たり前の時代は、家族が死者の世話をするのは珍しくなかったはず。親しい人との別れとは、本来そうあるべきなのかもしれません。

ところが今の時代、死ぬのは病院で、葬儀は葬祭場で行うのが一般的。しかも死者の“エンゼルケア”は葬儀会社の仕事とみなされ、それどころか、納棺という仕事に対して、思い込みや偏見さえ存在します。

これでは対話どころではなく、ケアを体感することもできません。

著者は、死んだ父親の手を握ったとき、そのやわらかさに驚き、やわらかな手から、父親との記憶が走馬灯のように蘇ったと語っています。

恐らく、ケアし、ケアされたからだと思いますが、残念ながら、私にはそんな機会はなく、貴重な体験をした著者が羨ましく思えました。

それにしても、プロとはいえ、見た目だけではなく、亡くなった人が“痛がらないよう”に着替えさせ、着心地まで考える、すずさんの心配りには感心するばかり。

すずさんの優しく、凛とした姿が、目に浮かぶようでした。