えむと、メモランダム

読んだ本と出来事あれこれ

『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』を読みました。

読書ノート2024年の6冊目は『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』(著 浜田哲二 浜田律子/新潮社/初版2024年2月15日)。書店で目にして、手に取りました。

本書は、24歳の若さながら大隊長として1千人近い部下を率い、沖縄で奮戦した伊東孝一と、戦死した伊東の部下の遺族が交わした「往復書簡」にまつわるノンフィクション。

著者は、沖縄戦の戦没者の遺骨や遺留品を収集し、遺族に返還する活動を20年以上続けている、元新聞社のカメラマンと元新聞記者の夫妻で、活動の中で伊東に出会い、伊東から、伊藤宛に送られてきた手紙356通を預かります。

その手紙は、終戦直後に、伊東が戦死した部下の遺族に送った「詫び状」に対する遺族からの返信。夫妻は伊藤の思いを汲み、手紙を遺族に返す活動を始めます。

本書では、伊東大隊の沖縄戦を追う中で、亡くなった兵士の人柄と最期の様子を描写し、遺族から伊東に届いた手紙を紹介するとともに、手紙の返還に奔走する夫妻とそれを助けるボランティアの学生たちの姿、そして70年以上の時を経て、手紙の返還に立ち会った送り主の遺族の姿が描かれています。

伊東は、沖縄から持ち帰った土砂とともに、600もの遺族に「詫び状」を送ったのですが、伊東は戦後、生き残ってしまったことへの後悔と贖罪の意識、戦死した部下たちへの想いに苛まれていたそうです。

伊東の詫び状は簡潔で、そこまでの深い思いは読み取れませんが、「流涕万斛(りゅうていばんこく)ではございますが、筆は文を尽くさず、文は心を尽くさず」と締めくくられています。

普段見慣れない言葉だけに、その一文は強く心に残り、手紙からあふれる伊東の心情に触れた感じがしました。

一方、遺族の返信で印象的だったのは、多くの遺族が、伊東の手紙に感謝し、伊東の世話になったことに礼を言い、そして夫や息子が戦争で散ったのは国のためだったと言い聞かせていること。

なかには悲嘆を率直に吐露するものや、生活の苦しさを訴える手紙もありますが、伊東を責めるでもなく、伊藤が生きて帰ったことを恨むでもありません。

けれど、覚悟はしつつ、生還に一縷の望みを持っていた家族は多く、大切な人を失った悲しみや無念を思うと、伊東ならずとも心が痛みます。

それにしても、本書で紹介されている沖縄戦の様子は悲惨なものです。

圧倒的な戦力で襲ってくる米軍を相手に、命がけで戦った兵士たち。死が迫っても逃げることは許されず、想像するだけで胸が締め付けられます。

伊東は、「戦争は二度と起こしてはならない」と断言しつつ、自衛のための戦いは必要だとも述べていたそうです。

今の世界では、その言葉を否定するのは難しいと思いながらも、「戦争など起きないでほしい」と願わずにいられません。

『密航のち洗濯ときどき作家』を読みました。

読書ノート2024年の5冊目は『密航のち洗濯ときどき作家』(文 宋恵媛・望月優大 /写真 田川基成/柏書房/初版2024年1月24日/装画 木内達郎/装丁 小川恵子)。書店で目にして、手に取りました。

本書は、1911年に朝鮮・蔚山で生まれ、日本で洗濯屋などの仕事をしながら、作家としても活動した尹紫遠(本名 尹徳祚)の100年を超えるファミリーヒストリー。

在日朝鮮人文学の研究者である宋恵媛氏と、ウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』の編集長を務めるライターの望月優大氏が、尹の残した作品と日記、尹の長男・長女への取材を通して尹と家族の人生をたどるとともに、植民地下の朝鮮人や在日朝鮮人が直面した様々な困難と、その背景にあるものを書き記しています。

作家といっても無名に等しく、残した作品もごくわずか。本書を読まなければ、尹の存在を知ることもなかったはずです。ところがその人生は、思いのほか波乱に満ちたものでした。

12歳の時、横浜の兄を頼り単身で渡日してからの苦難と苦学。徴用を逃れるために朝鮮へ逃亡。「密航」での再渡日とその最中に起きた妻との離別。名門一族出身の日本人女性との再婚。貧困から抜け出すため開業した「洗濯屋」。いつまでも楽にならない暮らしと妻との軋轢。そして53歳という若さでの病死。

本書の装画のイメージとは違い、尹を取り巻く世界はいつも厳しく、容赦のないものだと思い知らされます。

生きていくのが精一杯のはずで、作家などいつやめてもよさそうですが、尹は一日の仕事が終わった深夜に執筆をしていたとのこと。そこまで作家にこだわったのは、書くことが日本で生きていくための拠り所だったからかもしれません。

それにしても、本書で紹介されている尹と家族の苦しい生活ぶりや、朝鮮の人々を襲う理不尽な仕打ちと謂れのない差別・偏見には心が痛みます。

妻は出産直前で自ら売血の列に並び、子供は弁当を持たず学校に行く。洗濯の営業に行っても人間扱いされない。自分たちの意思と関係なく国籍が決められていく…。

多くの日本人にとっては、ほとんど縁のない話だったかもしれません。けれど日本の社会には、尹やその家族と同じような境遇に置かれた人たちがたくさんいたはずであり、その重い事実から目をそらすことはできません。

尹は戦前、『ひそやかに人等語れば我を追ふ話なるかと心尖りし』(尹徳祚『月陰山』)という短歌を詠んでいます。

尹の悲痛な心情が胸に突き刺さり、国家のエゴの罪深さを噛みしめました。

『夜行列車盛衰史』を読みました。

読書ノート2024年の4冊目は『夜行列車盛衰史』(著 松本典久/平凡社新書/初版2023年12月15日)

“鉄オタ”ではないのですが、「夜行列車」という文字が懐かしく、手に取りました。

本書は、鉄道ジャーナリストの著者が、明治22年(1889年)に誕生した日本の夜行列車の歴史を振り返った一冊。

鉄道に関する著者の豊富な知識をもとに、当時の時刻表や鉄道写真などもふんだんに示しながら、130年に渡る夜行列車の盛衰を詳しく紐解いています。

本書によれば、初めての夜行列車は、新橋・神戸間を約20時間で走行したそうです。現在では考えられないスピードですが、当時の人からすれば、想像を超えた乗り物だったかもしれません。

その後寝台車や特別急行も登場し、夜行列車の運行は拡大。そして敗戦の混乱を乗り越え、日本の経済発展に夜行列車も並走し、やがて最盛期を迎えます。70年代に起きた「ブルトレブーム」は社会現象にもなりました。

ところがそれ以降、「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」などの豪華列車が話題になったものの、新幹線や地方空港の整備も進み、夜行列車は次第に衰退。

現在定期運行しているのは、東京と高松・出雲を結ぶ「サンライズ」だけということで、時代の流れとはいえ隔世の感があります。

著者は、夜行列車が消えいくことを惜しんでいるのですが、私にも、夜行列車には懐かしく、忘れがたい思い出があります。

大学入学前、新潟から夜行の「佐渡」に乗って、東京の下宿を探しに来たこと。

新入社員研修で、先輩社員と一緒にその「佐渡」に乗って上野駅から新潟の取引先に赴いたこと。

東北新幹線がまだ開通していない時分、上野駅の1階ホームから、青森には「ゆうづる」、秋田には「あけぼの」、盛岡には「北星」に乗って出張していたこと。

会社の飲み会のために新幹線に乗り遅れ、京都から「銀河」に乗って東京に帰ったこと。

関西に住んでいた頃、まだ小さかった子供たちを引き連れ、京都から「つるぎ」に乗って新潟まで帰省したこと。

長い人生のひとコマに過ぎませんが、そのときの情景が今でもはっきりと頭に浮かんできます。

新幹線が延伸し、夜行バスが日本全国を走る。もう夜行列車の活躍する場はないのかもしれませんが、消えてしまうと私の思い出までなくなりそう。たとえ一路線でもいいから、走り続けてほしいと願わずにいられません。