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読んだ本と出来事あれこれ

『安楽死を遂げた日本人』を読みました

安楽死を遂げた日本人

2019年35冊目の読書レポートは、『安楽死を遂げた日本人』(著 宮下洋一/小学館 初版2019年6月10日)。書店で目にして手に取りました。

著者はスペインを拠点に活動するジャーナリスト。欧米各国の安楽死事情を取材して上梓した『安楽死を遂げるまで』は、第40回講談社ノンフィクション賞を受賞しています。

本書はその続編ともいうべきもの。5万人に1人が発症するという神経性の難病「多系統萎縮症」を患い、スイスで安楽死を遂げた女性(小島ミナさん)、末期がんに侵され安楽死を望みながら亡くなった男性、末期がんであることを公表し安楽死を望んでいる写真家の幡野広志さんなどを取材してまとめた「安楽死」をめぐるルポルタージュです。

先月放送されたNHKのTV番組『彼女は安楽死を選んだ』では、小島さんが安楽死する衝撃的ともいえるシーンが映し出され、大きな反響を呼びました。著者はコーディネーターとして番組制作にも関わっていますが、その経緯は、本書で明らかにされています。

本書でも、小島さんとその家族(姉妹)が物語の中心。小島さんの生い立ち、病気が判明してからの闘病の日々、家族の献身的な介護、自殺未遂を経て募る安楽死への思いと葛藤、そして困難に次々に遭遇しながらも、スイスへ旅立ち安楽死を遂げるまでの様子が、克明に綴られています。

ところで、薬物の服用または投与による「積極的安楽死」を認めている国は限られており、もちろん日本では認められていません。また本書によれば、緩和ケア技術の進むイギリスでは、安楽死を認めている国々を緩和ケア後進国と見なしているとのこと。「積極的安楽死」への批判は根強いものがあります。

緩和ケアというと、日本では終末期医療のイメージがありますが、広くは「治癒が難しい進行性の疾患で病期によらず苦痛の緩和を目指す医療やケアのこと」を指すそうです。そうすると、小島さんのような難病患者にも緩和ケアは有効なのかもしれません。

しかし、身体機能が次第に失われ、やがて四肢が動かなくなって寝たきりとなり、言葉も話せなくなる。しかも、先が見通せないというような極限状態に置かれたとき、人それぞれ考えることは違うはずです。

「今、命が終わることに悔いはありませんし、抵抗も感じません。命は有限ですから、いつかは終わりの時をむかえます。しかし、機能を殆ど失くし、人工呼吸器で息をし、話すことも出来ず、胃瘻で栄養を身体に送り込み、決まった時間にオムツを取り換えて貰い、そうやって毎日を過ごしたくはないのです。そうまでして、生きる必要性を私自身感じません。寝たきりになる前に自分の人生を閉じることを願います。」

「死にたくても、死ねない私にとって、安楽死は、“お守り”のようなものです。安楽死は私に残された最後の希望の光なんです」

「…私のような状態になった人間にあなたはどんな言葉をかけますか?『がんばって生きて』とも『死んでくれ』とも言えないでしょう。かける言葉がないと思うんです。そういう人間がどう生きればいいのか。世の中の病気でない人たちにも、少しでも考えてもらえるようになればと思います」…。

小島さんの言葉は深く、重いものがあり、胸に迫ってきます。小島さんの信念ともいうべきものに、返す言葉は見つかりません。

そして小島さんが安楽死を遂げる場面では、小島さんの家族への思いと、家族の小島さんへの思いが交差し、読んでいて涙が止まりませんでした。

それは安楽死に至るまでにそれぞれが抱いた苦悩や葛藤を、多少なりとも共有したからかもしれません。小島さんと家族の姿を知ると、「安楽死は間違っている」と簡単には言えなくなってきます。

もちろん、小島さんの安楽死は、小島さんとその家族だからできたこと。たとえ小島さんと同じ境遇になったとしても、安楽死の選択がいつも正しいとは限らないでしょう。小島さんも、自分の安楽死が「良き例」になることは望んではいません。

それでも、「他者の迷惑になりたくない」という日本人的な考えではなく、人間として自らの尊厳を守るために、自分の意志で安楽死することが、本当にいけないことなのか。自分が小島さんだったらどうするのか。小島さんの問いかけは心を揺さぶり、死のあり方、生きることの意味について考え込んでしまいました。

著者は安楽死を肯定的には見ていません。しかし、小島さんの死に立ち会い、まだ懸念は消えないものの、安楽死に対する考え方に変化があったようです。小島さんの遺したものの大きさを物語っています。

「日本における安楽死の問題に一石を投じてほしい。ペンの力でみんなを啓蒙してほしい」。本書が小島さんの願いを叶えたことは間違いないでしょう。

小島さんのご冥福をお祈りします。

「ベルリン・バロック・ゾリステンwith 樫本大進&ジョナサン・ケリー ~ライナー・クスマウル・メモリアル・ツアー2019」

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昨夜、「ベルリン・バロック・ゾリステンwith 樫本大進&ジョナサン・ケリー ~ライナー・クスマウル・メモリアル・ツアー2019」があり、会場のすみだトリフォニーホールに足を運びました。樫本大進さんの人気ぶりは相変わらずです。

プログラムの前半は、J.S.バッハの作品ばかりで『フルート、オーボエ・ダモーレとヴァイオリンのための三重奏曲ニ長調BWV1064[H.ヴィンシャーマン版]』、『ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調BWV1050』、そして『ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲ニ短調BWV1060』の3曲。

後半は、ヴィヴァルディの『ヴァイオリン協奏曲集「四季」』。お目当ての樫本さんは、前半の3曲目と「四季」でヴァイオリンのソロを務めました。

昨日は、弦、オーボエ―、フルート、チェンバロ、どれも素晴らしかったのですが、やはり何と言っても樫本さん。

樫本さんの演奏が始まってすぐに感じたのは「音が立っている」ということ。ステージの空気も一変し、存在感はまったく違います。

特に印象に残ったのは、「四季」のなかの「夏」と「冬」。樫本さんの情感にあふれ、華麗でかつ繊細な演奏はさすがで、すっかり心を奪われてしまいました。ファンが多いのもよくわかります。

室内楽は、大編成のオーケストラにはない魅力があります。楽器の微妙な音色がよくわかる。メンバーの息づかいが伝わってくる。会話するように演奏する姿を楽しめる。このコンサートでも、十分堪能することができました。

次は今年の秋に、樫本さんのヴァイオリンを聴く予定。今から楽しみです。

『本能寺の変』を読みました

本能寺の変 (講談社学術文庫)

2019年34冊目の読書レポートは、『本能寺の変』(著 藤田達生/講談社学術文庫 初版2019年6月10日)。新聞広告で知り、買い求めました。

本書の原本は、2003年に講談社現代新書として刊行された『謎とき本能寺の変』。本書は、その後発見された資料などをもとにした著者の論考を「補章」として新たに加え、増補版として出版されたものです。

「本能寺の変」というと、豊臣秀吉の援軍として出陣した明智光秀が、突然「敵は本能寺にあり」と叫び、織田信長の襲撃に向かうシーンや、織田信長が「是非に及ばず」と言い放ち、奮戦むなしく自害するシーンがすぐに頭に浮かんできます。いつのまにか脳裏に刻みこまれているようです。

ところが、光秀が謀反を起こした理由は、学問的にはそれほど重要ではないとのこと。そのためあまり深く研究されることはなく、結果として専門家でない人も参入して、「光秀怨恨説」、「光秀野望説」、「黒幕説」などいくつもの説が唱えられてきたそうです。

本書では、歴史研究者で大学教授の著者が、様々な資料・文献をもとに、室町幕府第15代将軍の足利義昭が事件のキーマンであったことや、事件の本質は、「改革派」と「守旧派」のせめぎ合いであったことを示しながら、謀反の謎に迫っていきます。

事件が起きた当時においても、義昭の力は思いのほか強く、また朝廷の権威は特別なものであったこと、織田政権内での世代交代の波が政権中枢にいた老臣たちに迫っていたこと、四国の長宗我部元親、三好康長と織田側の関係の変化が光秀の立場を危うくしたことなど、本書で初めて知ったことはたくさんあり、興味深く読みました。

とりわけ、「本能寺の変」は、“生き残り”をキーワードにした「信長vs義昭」、「光秀vs秀吉」、「元親vs康長」の三層構造。元親-光秀-義昭の結びつきがクーデターを実現させたという著者の指摘には「なるほど」と思わせるものがありました。

もっとも、義昭が主導したにせよ、光秀の独断にせよ、何の目算もなく謀反を起こすことは考えにくいものがあります。

著者の指摘のように、秀吉の中国大返しは光秀陣営にとっては思いもよらぬもの。これで、叛乱軍の目算は狂い、光秀(もしかしたら義昭も)の夢は潰えるわけですが、紙一重で“ワンチャンス”をものにした秀吉の運と力に脱帽といったところです。

著者は、秀吉の情報収集能力の高さが秀吉側を有利にしたと述べていて、「もしかしたら秀吉は何かが起きることを感づいていた」とさえ思えてきます。そうだとしたら、「本能寺の変の謎」はもっと深まりそうですが、さすがに飛躍しすぎかもしれません。

来年のNHKの大河ドラマは、光秀を主人公にした『麒麟がくる』。「反逆者」というイメージついてまわる光秀がどのように描かれるのか、興味津々です。