えむと、メモランダム

読んだ本と出来事あれこれ

『やまゆり園事件』を読みました。

やまゆり園事件

2020年29冊目の読書レポートは『やまゆり園事件』(著 神奈川新聞取材班/幻冬舎/初版2020年7月20日)。

神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた残忍な殺傷事件の衝撃は、今でも消えることはありません。

今年3月、犯人の植松聖の死刑判決が確定。事件のことが気になって、本書を手にとりました。

本書は、地元の神奈川新聞が、事件発生から死刑判決まで4年にわたる取材をもとに、事件の深層に迫ったルポルタージュ。

植松聖との37回に及ぶ接見、裁判での証拠や証言、関係者への丹念な取材を通して、植松聖の人物像を浮かび上がらせ、「なぜ事件は起きたのか」を追求。

さらに、事件で浮き彫りになった障害者差別の実態を明らかにし、また事件にも深く関係する優生思想について紐解き、そして差別をなくそうとする教育現場の報告などを交えて、共生社会の実現について考えていくものになっています。

凄惨で痛ましい事件現場の状況、理解を超えた植松聖の言動、遺族の深い悲しみ、原因の究明には程遠かった匿名での裁判。

本書を読んで、この事件がとんでもないものであったことを、今更ながら思い知らされました。

しかし強く考えさせられたのは、事件そのもののことより、犠牲者の実名が明かされなかったことで明白になった、障害者に対する社会の有り様です。

「この国には、優生思想的な風潮が根強くありますし、全ての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することはできません」という遺族。

「社会には、いろいろな人がいますよ。悔しいが、偏見や差別をなくそうなんて、無理でしょう。(実名を明かさないのは)だって、いままでだって、ずっと、ひっそり生きてきたんだから」と話す入所者の家族。

「『障害者がうるさいから、あそこの家に早く行ってくれ』と警察に通報する住民もいて、嫌がらせの電話を受けることもあった」、「地域に密着した生活ができないから息子に入れた。重度の知的障害がある子の親からは地域の『地』の字も出てこないと思う」と園の再建説明会で訴える母親。

差別され、排除されてきた現実と家族の苦悩が胸に迫り、言葉がみつかりません。

自分が何者か隠さなければならない人生など、あってはならないはず。けれど社会はそんな理不尽さを見過すどころか、強いてきたことに気づかされ、自分自身の認識不足を痛感させられることになりました。

本書においては、脈々と息づく「優生思想」、人々を追い立てる「能力主義」、障害により学ぶ場所や暮らす場所を平気で「分けてきた社会」、これらが事件の背景に潜んでいるとされています。

だとすれば、これを克服して真の「共生社会」を実現し、第二の植松聖が生まれる芽を摘まなければならないはず。

それは、尊い命を奪われた19人に対する、社会の責任ではないかと思わずにはいられません。

本書の終章では、“分けない教育”を目指す教育現場の様子を踏まえて、「一人一人が障害者を<理解>や<支援>の対象として見るのではなく、対等な<仲間>として付き合い、<私とあなた>という二人称の関係性を紡いでいくことで、『分ける社会』を変えていける」と提言。

そして、「誰もが地域で学び、暮らすことができる社会に変えていこう。重度障害者が当たり前に、私やあなたのそばにいる街に変えていこう。その先には、多様な存在が響き合う豊かで面白い世界が待っている予感がしている。」と呼びかけています。

「共生社会」の実現のために自分に何ができるのか、今はなかなか思いつきません。けれどこの先、障害者と出会うことがあれば、この提言や呼びかけを思い出し、接していきたいと思っています。

『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』を読みました

AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争 (光文社新書)

2020年28冊目の読書レポートは『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』(著 庭田杏珠 渡邉英徳/光文社新書/初版2020年7月30日)。書店で目にして手に取りました。

8月6日は広島の、今日9日は長崎の「原爆の日」。そして15日は「終戦の日」。

日本の8月は祈りの月であり、平和について考える月ですが、戦後75年が経ち、社会の関心は薄れているように思えてなりません。

本書は、広島出身で東大生の庭田杏珠さんと、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授の共同プロジェクト「記憶の解凍」の成果をまとめた写真集。

このプロジェクトは、「広島に生まれた者として“被爆者の想い”を受け継ぎ、伝えていきたい」と考えていた庭田さんと、情報デザインとデジタルアーカイブによる“記憶の継承”について研究している渡邉教授の出会いから始まったとのこと。

AI(人工知能)と人のコラボレーションで、戦前から戦後にかけてのモノクロ写真をカラー化し、対話の場を生み出すことに取り組んでいるそうです。

本書に収録されているのは、戦前の広島・沖縄・国内の様子、開戦から太平洋戦線、沖縄戦・空襲・原爆投下、そして戦後の復興の姿を撮影した写真約350枚。

写真はAIで自動カラー化した後、当時を知る人の証言や資料をもとに手作業で彩色し、仕上げられたものです。

渡邉先生は、「モノクロ写真には無機質で“凍りついた”印象があり、これが戦争と私たちの距離を遠ざけ、自分ごととして考えるきっかけを奪っている」と語っています。

なるほど、私たちは、白黒で写された世界を別の世界のことだと思って見ているのかもしれません。

ところが、その凍りついていた過去の時は、カラー化で見事に“解凍”されます。

今と変わらない楽しげな日常の風景とそれを打ち砕く戦争の惨禍。遠い過去のものになりつつある“戦争の時代”がリアルに甦り、自分ごととなって迫ってきました。

収録されている写真にはどれも心を奪われましたが、特に印象に残ったのは次の4枚。

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広島市内で撮影された、スイカの赤い色が鮮やかな「夏のだんらん」。
これから13年後に原爆が投下されます。それだけに写っている笑顔に、心は暗くなってしまいます。(写真提供 高橋久)

 

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特攻機で出撃するわが子を、手を振って見送る父と母、そして二人の妹。(右から4人目より父、妹、母、妹)
家族はいったいどんな思いで見送ったのか、考えるだけで胸が押しつぶされてしまいます。(写真提供 朝日新聞社)

 

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広島に投下された原子爆弾のきのこ雲。
映画監督の片瀬須直さんの指摘で、白い雲が不気味なオレンジ色に。この雲の下で、一瞬にして幾多の尊い命が奪われたかと思うと、言葉が出てきません。(撮影 尾木正己)

 

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終戦直後にマーシャル諸島で撮影された日本兵。
あばら骨が浮き出たガリガリの体に切ないものを感じます。日本兵は多くの戦地で、飢えと戦っていたという事実をまざまざと示すものです。

ところで、庭田さんはまだ19歳。まだ若いですが、その深い想いと、それを結実させた行動力には頭が下がります。

「アートやテクノロジーを活かして、これまで関心のなかった人にも、原爆や戦争・平和について、自分ごととして想像してほしい。」

「そして、それぞれが感じた戦争体験者の“想い・記憶”が共感の輪とともに社会に拡がり、未来へ受け継がれていく。これが、今の私にできるあたらしい伝え方です。」

本書に込めたこの庭田さんの想いが、多くの人に届くことを願ってやみません。

『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』を読みました

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2020年27冊目の読書レポートは『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』(著 西田亮介/朝日新聞出版/初版2020年7月30日)。書店で目にして手に取りました。

このところ、コロナウィルスの国内感染者は増加するばかり。今日(8月1日)も東京の感染者数は過去最多を更新しました。

一方、政府は経済優先で、緊急事態宣言の再発出はまったく考えていない様子。

「今は4月の状況と違う」と言われても、急激な右肩上がりのグラフを見ていると、このままで本当に大丈夫なのか、不安は拭えません。

本書は、このコロナ危機により引き起こされた人々の“不安”、が政治や社会にどのような影響を及ぼしたのか、気鋭の社会学者である著者が考察したもの。

WHOや厚生労働省の資料などをもとに、今年5月頃までのウイルス拡大の様相と政府の対応を検証したうえで、コロナ危機で浮かび上がってきた、政治、社会、メディアの抱える課題・問題を分析。

そして次の有事において、不安あるいはリスクと向き合うために政治、社会、メディアはどうあるべきか考えていきます。

本書によれば、新型コロナウィルスに対する日本政府の初動は、新型インフルエンザの経験をもとにした事前の備えや訓練通りのもので、WHOからは評価もされました。

ところがその後、クルーズ船対応、総理の初会見の躓き、メディアとSNSの共振、全世界での感染者数の増加などにより不安は拡大し、妙手だったはずの「アベノマスク」や「コラボ動画」の“成果”は今一つ。

そこに「検察庁法の改正」といった政治スキャンダルも重なって、「感染の不安/不安の感染」が政治不信を招く事態となり、内閣支持率は低下。

著者によれば、それを気にした政府は、“耳を傾けすぎる政府”と化し、前例を踏まえず、合理性を失ったまま、世論(=“わかりやすい民意”=ワイドショーやネットの話題)に迎合するかのように「大胆な決定」「大胆な政策」を乱発。

しかし、不透明な予算の使い道、事業者選定の不正疑惑、実施事業の遅れといった問題も露呈し、不信感は残ったままであることが指摘されています。

一連のコロナ騒動で湧き起った「不安」が、政治や社会にどのように作用したのか、話は明快で頷くことばかり。

本書を読んでいるときに、ちょうどGoToトラベルのドタバタに出くわし、場当たり的になりがちで、不安・不満を解消するどころか、混乱を招くだけになってしまう“耳を傾けすぎる政府”の本質を見た気がしました。

「民意に寄り添う」というのは耳に心地よい言葉ですが、民意の捉え方がずれ、都合のいいように寄り添われてしまうと、国民は思いがけないリスクに曝されてしまうということがよくわかります。

もっとも著者によれば、今起きていることは、何も政治だけの問題ではありません。

大事な役割を放棄し、政府や自治体の発表をうまく切り取って、センセーショナルに流すだけのメディア。

過去を忘れ去り、議論や対話を避けてわかりやすいものだけに反応し、被害者意識にとわれる人々。

いずれもコロナ危機以前からも見られたものですが、これを克服しないと、有事であろうが平時であろうが、同じことが繰り返されるでしょう。

“耳を傾けない政府”は社会と断絶していますが、“耳を傾けすぎる政府”は社会と表裏一体。「場当たり的」という批判は、そのまま社会にも向けられているということを、自覚する必要がありそうです。

それにしても、治療薬やワクチンが早く開発されないか、思いは募るばかりです。