えむと、メモランダム

読んだ本と出来事あれこれ

「NHK交響楽団 12月公演」

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昨日、「NHK交響楽団 12月公演」があり、NHKホールに足を運びました。

指揮は井上道義。プログラムの前半は、ショスタコーヴィチの『交響曲第1番』。後半は、松田華音さんのピアノで、伊福部昭の『ピアノ管弦楽のための「リトミカ・オスティナータ」』と、伊福部昭のデビュー作『日本狂詩曲』。

井上さんならではともいえる、面白い取り合わせです。

ショスタコーヴィチの第1番を聴く機会は多くありませんが、日本でショスタコーヴィチといえば、やはり井上さん。

いつものエネルギッシュな指揮でN響の力が存分に引き出され、ショスタコーヴィチの“エッセンス”の詰まったこの曲の良さを、改めて感じることになりました。

そして、今回のお目当ては後半の2曲。伊福部昭の作品は、独特のリズムとメロディーに溢れていて、心がひかれます。

昨日の演奏は、その伊福部ワールドの魅力を余すことなく、聴かせるもの。

魂を揺さぶる弦と管の響き、そこにパーカションの刻むリズムが波となって体に押し寄せ、聴く者を圧倒。

井上さんの踊るような指揮、オケの熱量に負けない松田さんのしっかりとした打鍵、揺れ動く弦楽器、そして打楽器の呼吸の合ったパフォーマンスは、目に焼き付いたままです。

終演後、オケのメンバーが舞台を去っても拍手は鳴り止まず。

井上さんとヴィオラ首席客演奏者の川本嘉子さんが、舞台に再び登場し、拍手に応えるという珍しい光景を目にすることになりました。

『音楽の肖像』を読みました。

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2020年42冊目の読書レポートは『音楽の肖像』(著 堀内誠一 谷川俊太郎/小学館/装丁 中嶋香織/初版2020年11月4日)。書店で目にして手に取りました。

クラシック音楽の鑑賞は、私の数少ない趣味のひとつ。ただし、作曲家の名前や代表的な曲名は知っていても、作曲家その人については、詳しくありません。

本書は、グラフィックデザイナーで絵本作家でもあった堀内誠一さんが遺した作曲家28人の肖像とエッセイに、それぞれの作曲家にちなんだ谷川俊太郎さんの詩を収めた一冊。

肖像画といっても、学校の音楽室に貼られていたようなものではなく、ヤマハのPR誌『ピアノの本』の表紙を飾った彩り豊かな絵で、作曲家のイメージによくあったもの。

エッセイは、作曲家の人となりを思い起こさせる楽しいもので、読んでいるうちにメロディーが聞こえてくるよう。

そして、谷川さんの詩は、音楽への思いがこもった心に響くもの。

何ともいえない味わい深い本で、1ページ、1ページゆっくりと、丁寧に読み進むことになりました。

肖像画、エッセイ、詩。どれも印象的でしたが、肖像画で気に入ったのは、「ガーシュイン」の横顔、「シューベルト」の思いに耽る後ろ姿、そして「バッハ」と子どもたち。

なかでもバッハは異色で、“音楽の父”の名にふさわしいお父さんぶりは微笑ましいものです。

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(P57 ジョージ・ガーシュイン)

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(P65 フランツ・シューベルト)

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(P93 ヨハン・セバスチャン・バッハ)

一方、谷川さんが紡ぐ深い言葉も心をとらえ、静かに広がって行きます。

例えば、《ヒトは皆それぞれに自分の音を持っていて/気づかずに互いに響き合っている/音楽は哀しみと苦しみに学ぶ/喜びにそして言葉を拒む沈黙に学ぶ/見えない時の動きと鼓動をともにして》(P90『今此処の私のために』から)

本書にふさわしい、音楽の根源を照らすような一節。

クラシック音楽に限らず、人間の営みから音楽が消えてしまったら、人生は無味乾燥なものになるに違いありません。

それにしても、素敵な本に出会いました。

『教養としての「中国史」の読み方』を読みました。

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2020年41冊目の読書レポートは『教養としての「中国史」の読み方』(著 岡本隆司/PHPエディターズ・グループ/装幀 西垂水敦/初版2020年10月1日)

書評サイト『HONZ』で、立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんのレビューを目にして手に取りました。

日本の歴史は、中国の存在なくして語れません。けれど昔から深いつながりがあっても、今の中国を“近い国”と思う人は少ないでしょう。

本書は、現代中国を理解するための手がかりとして、京都府立大学教授でアジア史を専門とする著者が中国4000年の歴史を読み解くもの。

著者は、「人に個性があるように、国にも個性がある。人の個性がその生い立ち・履歴・人生の結果であるように、国の個性は歴史の結果である」と語り、中国の歴史をたどりながら、何が中国の個性をつくったのか、その個性がどのような事象を招いたのか明らかにしていきます。

歴史書といえば史実や事件を追うのが常ですが、本書では、それらはあくまで題材のひとつ。

史実・事件の背景には「華と夷」、「士と庶」といった「二元構造(対の構造)」があり、それが中国の個性であること。

その二元構造は、広大な国土と儒教が生んだものであり、とりわけ儒教は、政治・社会と強く結びつき、国のあり方、人々の考え方に大きな影響を及ぼしたことが示されています。

それにしても、本書で知った儒教の考え方は思いがけないものでした。
儒教には「対等」という価値観がなく、常に「私」が優先。

「礼」はつきつめると“自分優先”で、「礼」を重んじることが中華思想につながった。

儒教に「進歩」という考え方はない。「改革」は「改悪」であり、「祖法」は変えてはいけない。

世の中には必ず「治める者」(士)と「治められる者」(庶)が存在し、「治める者」は頭を使い、「治められる者」は体を使う。

儒教世界では、賄賂を取るよりも、横領をするよりも、税金を上げるほうが「悪」。

日本人にはなかなか理解しがたいですが、著者によれば「中国人の根幹には、いまも儒教の枠組みが鞏固に染みついている」とのこと。

中国を知るためのには、儒教は避けて通れないようです。

一方、中国に関する著者の様々な指摘も「なるほど」と思わせるもの。

儒教の影響で、汚職を汚職と見なさない感覚が、中央にも地方にも、士にも庶にも根付いてきた。

中国は合法、非合法、善悪の境界が希薄で、黙認状態が突然「違法」になるため、中国人は心底から国家を信用していない。

「法治国家」とはいうものの、中国では法律は国を治める道具であり、人民の上には君臨するが、共産党の上に立つことはない。

賄賂や横領の横行、国際ルールの無視、態度の豹変は中国共産党から始まったことではない。

今も昔も民衆は弾圧的に統制しないと従わず、中国政府は民衆、人民の暴動を恐れ、バラバラになることを恐れている。

中国は「中国」を名乗る以上、大国でありつづけなければならず(それが中国のアイデンティティ)、大国でいる限り、民主化は難しい…。

今の中国社会の有り様や、国際社会での振る舞いが次々に頭に浮かんできましたが、これも「個性」の現われということになりそうです。

著者は、中国とつきあうためには、完全にわかりあえなくても、歴史や文化を学んだうえで、「君子の交わり」(=水のように“サラリ”として深入りしないもの)をめざすべきと語っています。

日中間には多くの課題があり、現実は“サラリ”といかないかもしれません。けれど、相手のことをもっと知れば考え方も変わり、考え方が変われば、言動も変わってくるはず。日本と中国もそうあってほしいものです。

ところで著者は、「歴史を見るうえで大切なのは、他者と比べて優劣をつけ、毀誉褒貶に走ることではなく、それぞれの異同を知り、その由来を理解すること」とも語っています。

日本と中国の関係に限らず、これからの時代において、忘れてはならない大切なことに違いありません。