えむと、メモランダム

読んだ本と出来事あれこれ

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読みました

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

2019年38冊目の読書レポートは、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(著 ブレイディみかこ/新潮社 初版2019年6月20日)。大きな反響を呼んでいるということを知り、買い求めました。

著者のブレイディみかこさんは、音楽好きで(パンクミュージックのようです)、若い頃から繰り返し渡英していたとのこと。1996年からイングランド南東部の都市ブライトンに住み、イギリスで保育士の資格を取得して、保育所で働きながらライター活動を開始。アイルランド出身のご主人との間に12歳になる息子さんがいます。

一家が暮らすのは、「荒れている地域」と呼ばれているところ。ただ親戚の要望もあって、息子さんは地元の小学校ではなく、市の学校ランキング1位を走るカトリックの名門公立校に通学。そこの生徒たちは、ほぼ全員がカトリックのエリート中学校に進学するそうです。

ところが息子さんが進学先に選んだのは、ブレイディさんと一緒に学校見学会に出かけた近所の「元・底辺中学校」。そこは、「ホワイト・トラッシュ(白い屑)」と差別語で呼ばれる白人労働者階級の子供たちが多く通う学校で、“元”というのは、ユニークな教育と教師の努力でランキングが上昇し、底辺を脱したからです。

本書は、ブレイディさんが、この「元・底辺中学校」に通う息子さんの日常を綴ったエッセイ。

人種差別、貧困、格差、万引き、いじめ、けんか、アイデンティティ…。牧歌的で平和だった小学校生活では想像もできなかった事態に遭遇する息子さんが、悩み、戸惑いながらも、逃げることなく向き合う姿と、そんな息子さんを心配しながらも温かくみつめるブレイディさんの姿が軽快なタッチで描かれ、そこからイギリスの社会が直面している問題(それはイギリスに限りません)が浮かびあがってきます。

本書では、印象的なエピソードが次々に登場。イメージとは違うイギリス社会のリアルな様相や独特の学校制度に驚き、息子さんの振る舞いには感心するばかりでしたが、特に心に残ったのは、日本語では「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳される「エンパシー」という言葉。

イギリスの辞典には、「他人の感情や経験などを理解する能力」、「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれているそうです。

息子さんは、先生から「これからは、エンパシーの時代であり、世界中で起きている混乱を乗り超えていくには、自分とは違う立場の人々や、自分と違う意見を持つ人々の気持ちを想像してみることが大事。つまり“他人の靴を履いてみること”だ」と教わります。

もっとも、息子さんは生まれながらにエンパシーを身に着けているようです。学校で習わずとも、社会の縮図ともいえるこの中学校で経験する様々な問題に対し、相手のことを思いながら、自分なりに解決策を考え、柔軟に行動。そんな息子さんにすっかり心を奪われてしまいました。

今世界では、相手の声に耳を傾けることなく、自分たちの主張を声高に叫ぶことだけが正義であるかのような風潮が蔓延。社会の分断は進み、格差は拡大し、人種差別は止まず、排外主義は勢いを増すばかり。

息子さんは、そんな乱暴で頑迷な大人に対し、他人の靴を履いてみることの大切さを教えてくれているようです。

息子さんのような若者が、これからの社会にとって希望の光になっていくに違いありません。

『喪失学「ロス後」をどう生きるか?』を読みました

喪失学 「ロス後」をどう生きるか? (光文社新書)

2019年37冊目の読書レポートは、『喪失学「ロス後」をどう生きるか?』(著 坂口幸弘/光文社新書 初版2019年6月30日)。書店で目にして手に取りました。

わが家で飼っているマルチーズは今年で10歳。大切な家族の一員です。ただし、まだまだ元気とはいえすでに高齢。マルチーズの平均寿命を考えると、一緒にいられる時間はそうは長くありません。

最近は、いつか訪れる妻や子供たちの(私もかもしれませんが)「ペットロス」がちょっと気になるようになりました。

本書は、生きていれば誰でも必ず体験する「喪失」(ロス)について考えるもの。死生学、悲嘆学の専門家で、大学教授の著者が、「喪失の意味」、「喪失がもたらす影響」、「喪失と向き合うために必要なこと」、「喪失のあとの生き方」、そして「喪失への備え方」について解説。最後に読者が自分の喪失体験を振り返り、自分自身を理解するためのワークも紹介しています。

「喪失」といっても、ふだん改まって考えることはありません。大なり小なり何かを失うことは、決して特別なことではないからでしょう。

しかし重大な喪失は、ときに精神的・身体的に深刻な影響を及ぼすことがあり、喪失と折り合いをつけていくというのは、人生をより良く生きていくための大切なスキルかもしれません。

本書では、その「喪失との向き合い方」と、「喪失後の生き方」について著者が丁寧に説明しています。

「向き合い方に正解はない」、「自然に従う」、「あせらない」、「自分をゆるす」、「人にたよる」、「身体を休める」、「気持ちを言葉にする」、「思い出を大切にする」…。内容はとてもわかりやすく、うまく実践できれば受けた傷は癒え、ポッカリあいた“心の穴”も小さくなりそうです。

共感できたのは、「物事の良い側面に目を向ける」ということ。長所と短所、陰と陽。物事は表裏の関係にあり、著者の言うように、何かを失うことは、何かを得ることでもあります。(個人的には、昨年自分の父親を亡くしてそれを実感しました。)

失くしたものに目が行くのは仕方ないことですが、その代わりに得たものについて思いを巡らせば、気持ちも多少は違ってくるはず。そうすれば、その後の生き方も違ってくるに違いありません。

著者によれば、超高齢化社会・多死社会を迎える現在、「何が失われるのかをしっかり認識し、失うことにどう向き合うのかも人生の大きな課題」とのこと。自分にとっても決して他人事ではありません。

今まで、意識することなどなかった「喪失」ですが、本書を参考にして、これから先は上手に付き合っていきたいものだと、つくづく思いました。

『フォト・ドキュメンタリー 朝鮮に渡った「日本人妻」―60年の記憶』を読みました

フォト・ドキュメンタリー 朝鮮に渡った「日本人妻」: 60年の記憶 (岩波新書 新赤版 1782)

2019年36冊目の読書レポートは、『フォト・ドキュメンタリー 朝鮮に渡った「日本人妻」―60年の記憶』(著 林典子/岩波新書 初版2019年6月20日)。書店で目にして手に取りました。

著者はフォトジャーナリスト。2013年から18年にかけて11回にわたり訪朝し、1959年に始まった「北朝鮮帰国事業」によって、夫に同行して北朝鮮に渡った日本人女性と、敗戦後、朝鮮で家族と生き別れ、朝鮮人夫婦に引き取られた日本人女性を取材してきました。

本書は、それをまとめたルポルタージュ。本人や家族のインタビューと、著者の撮影したものも含め数多くの写真から、人生の大半を北朝鮮で過ごした日本人妻たちと残留日本人女性の歩んできた道をたどるものです。

「北朝鮮帰国事業」というと、もうかなり昔、テレビで観た吉永小百合さんの主演映画『キューポラのある街』が頭に浮かんできます。

当初日本では、この事業は“人道主義”的なものとして捉えられ、概して好意的だったとのこと。映画に映し出される北朝鮮に渡る人々の熱気、それを見る日本人の眼差しは印象的で、今でも心に残っています。

もっとも、たとえそうであったとしても、日本人が北朝鮮で暮らすということは当時でも大変なこと。すんなりと受け入れられるはずはありません。まして女性たちは周囲の反対を押し切り朝鮮人と結婚した身。そのうえ北朝鮮に行くとなれば、大きな軋轢があったことは容易に想像できます。

しかし、本書に登場する日本人妻たちからは、北朝鮮に渡ったことに“後悔”は感じられません。

それは、夫と育んできた愛情と信頼が心の支えであった日本人妻からすれば、夫に同行しないという選択肢はあり得ず、また他の日本人妻に比べれば恵まれていて、北朝鮮での様々な困難、辛い経験を何とか乗り越えることができたからかもしれません。(「地上の楽園」という言葉に騙されたという思いを持ち続けた人もいて、北朝鮮での日本人妻の境遇は様々だったようです)

ただし女性たちも、その後日本に戻れなくなるとは、思ってもみなかったことでしょう。日本人妻たちの間には、3年後には日朝間で行き来できるようになるという認識があったそうですが、それは叶わないことになりました。

それだけに、口には出さないものの、異国の地で抱き続けてきた日本での思い出は、かけがえのないものであり、望郷の思いは深いに違いありません。

著者の取材が終わった別れ際、「行かないで」と日本人妻が著者の手を握り締める場面は胸に迫り、写真に写る日本人妻の少しさみしげな表情は、目に焼き付いたままです。

1984年まで25年間続いた帰国事業で、北朝鮮に渡ったのは日本人約7千人を含め9万3千人余り。本書によると、そのうち「日本人妻」は約1千8百人。

しかし事業開始から60年が経ち、海を渡った日本人妻の多くがすでに亡くなっているそうで(著者の取材中にも亡くなられた方がいます)、このままでは、「日本人妻」は忘れ去られてしまうかもしれません。

日朝関係は政治的に厳しいものがありますが、家族の幸せをひたすら願って北朝鮮に渡った日本人妻たちには関係ないこと。現状では可能性はないに等しいとしても、1997年に行なわれた「里帰り事業」が復活し、もう一度日本の地を踏める日が来てほしいと願わずにいられません。