えむと、メモランダム

読んだ本と出来事あれこれ

『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』を読みました

アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 (講談社現代新書)

2020年37冊目の読書レポートは『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』(著 吉田 徹/講談社現代新書/初版2020年9月20日)。書店で目にして手に取りました。

来月3日はアメリカの大統領選挙。トランプ大統領の過激な発言はもちろん、激しい言葉の応酬で露わになるアメリカ国内の分断も驚くばかり。

アメリカのイメージも随分変わってしまいました。

本書は、北海道大学大学院法学研究科教授で政治学者の著者が、“怒りと敵意”で動く現代の政治状況を、「リベラル・デモクラシー」の退潮という視点から捉えて読み解くもの。

第二次大戦後の政治を形成した「リベラル・デモクラシー」の誕生から衰退までの過程を示し、今起きている「権威主義・保護主義」の台頭、「ポピュリズム政治」の広まり、「歴史認識問題」の政治問題化、「テロリズム」の変質などについて、そのメカニズムと実態を明らかにし、そのうえでリベラリズム回復の道を考えていきます。

私自身は、まさに「リベラル・デモクラシー」とともに生まれ育った世代。
そのせいか、今世界各地で起きている現象に、違和感を覚えたり、理解に苦しんだりすることがよくあります。

けれど、中間層の衰退が「リベラル・デモクラシー」の動揺につながっていったこと。

「保守」と「左派」という対立構造は、もはや過去のものであり、“脱物質主義的価値観”(「個人」と「共同体」、「自由」と「秩序」、「自律」と「権威」など)が新たな対立の軸となりつつあること。

その“脱物質主義的価値観”は、アイデンティと価値観の問題であるために、議論は激しくなり、社会の分断はより深いものになること。

「歴史認識問題」は、日本と韓国に留まらず、世界各地で現実の政治を動かす対立的争点になっていること。

それは戦後世代が主流となり、「リベラル・デモクラシー」の後ろにあった「私的な歴史としての記憶」が前面に出てきたためであること。

テロやヘイトクライムは、宗教ではなく、移民問題など社会そのものによって生み出されていて、個人が宗教を利用していること…。

著者の話は明快で、混沌ともいえる政治状況が現れた理由や、今の政治を動かしている原理を、多少なりとも理解することができました。

もっとも、世界の政治がこの先どうなるかは予想がつきません。

著者は、リベラリズムを五つのレイヤー(「政治リベラリズム」「経済リベラリズム」「個人主義リベラリズム」「社会リベラリズム」「寛容リベラリズム」)に分け、その相互の不適応が今の政治状況を招いたとする一方、それを請け戻すリベラリズムの姿を示しています。

リベラリズムが「怒りと敵意の政治」を生み出したのであれば、それを鎮めるのもまたリベラリズムということになるのかもしれませんが、それはこれからのことです。

新型コロナは、これまで隠れていた社会の抱える様々な問題を浮上させました。

著者は、ポスト・コロナの時代には「怒りと敵意の政治」は強度と頻度を増し、社会の対立と軋轢はさらに深まるとしています。

暗い時代の到来を思わせますが、異論を排除する、対立を煽る、多様性を否定する。そんな政治や政治家だけは現れてほしくありません。

「政治とは、異なる者との間の共存を可能にするための営みのことだ。そうであるならば、必然的に対話の契機が含まれていなければならない。」という著者の言葉が強く心に残りました。

「NHK交響楽団 10月公演」

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今日は「NHK交響楽団 10月公演」。会場のNHKホールに足を運びました。

指揮は、バッハ・コレギウム・ジャパンの創設者の鈴木雅明さん。N響と共演するのは今回が初めてだそうです。

プログラムは、ハイドンの交響曲第101番 「時計」と、モーツァルトの交響曲第39番の古典派2曲。

今日も新型コロナのため、入場人員を制限しての1時間ほどの短い公演でした。

鈴木さんの指揮は初めて見ましたが、端正な動きの中にパッションがあふれ、心に残るもの。N響との息もぴったりで、弦と木管の響きを堪能しました。

ところで、今日はモーツァルトも良かったのですが、改めて気づいたのがハイドンの素晴らしさ。

鈴木さんとN響の力もあってのことでしょうが、古典派のイメージとは異なる“みずみずしさ”は印象に残りました。

ハイドンの曲は「つまらない」という思いが先立ち、あまり聴いてきませんでしたが、食わず嫌いだったかもしれません。

次回は11月の演奏会に行く予定。いよいよ二時間のコンサートになり、今から楽しみです。

『日ソ戦争1945年8月 棄てられた兵士と居留民』を読みました

日ソ戦争 1945年8月――棄てられた兵士と居留民

2020年36冊目の読書レポートは『日ソ戦争1945年8月 棄てられた兵士と居留民』(著 富田武/みすず書房/装丁 安藤剛史/初版2020年7月17日)。書店で目にして手に取りました。

日本とソ連の戦争というと、映画の『戦争と人間 第3部』を思い出します。実際のソ連軍の戦車が登場する、ノモンハン事件の戦闘シーンは迫力がありました。

太平洋戦争末期、ソ連軍の満洲侵攻(日ソ戦争)が始まったのはノモンハン事件から6年後のことです。

本書は、成蹊大学名誉教授でロシア・ソ連政治史が専門の著者が、旧ソ連の公式文書や数多くの文献を読み込み、「日ソ戦争」の全体像を明らかにしたもの。

冒頭に用語解説や兵器の図解まであるのには驚きましたが、まず第一章「戦争前史」で、戦争に至るまでの外交交渉の様子やソ連の戦争準備と日本の対ソ戦略について解説。

次いで、本書の中心である第二章「日ソ八月戦争」で、ソ連軍と関東軍の戦闘記録とともに、日本人将兵の回想記を列記しながら、主要な戦闘の様相を詳述して検証。

そして第三章「戦後への重い遺産」で、戦争後の残留・留用、賠償、戦犯裁判の問題について言及しています。

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(武器の図解ページ)

これまで「シベリア抑留」に関する本は何冊か読みましたが、日本とソ連の「戦史」を読むのは初めて。

それだけに、周到な準備のもと強力な武器を携えたソ連軍と、根こそぎ動員で招集された経験不足の兵に旧式の兵器が主力の関東軍の攻防に引き込まれてしまいましたが、戦争の悲惨さは何も変わりません。

奮戦するものの、最後は白兵突撃や戦車への自爆攻撃に追い込まれる兵士の姿や、子どもを含む多くの民間人が行き場を失い、自決に追い込まれる様子に、胸が締め付けられました。

それにしても、関東軍の採った「持久戦」戦略は、結局のところ軍人や役人、満鉄など有力企業の家族のためのものでしかなく、「棄兵・棄民」の隠れ蓑だったという著者の指摘には、ただ嘆息するだけ。

戦場にとり残された開拓民のことを思うと、やりきれない思いが募ってきます。

日本が絶望的な和平交渉の仲介を働きかけているさなか、ソ連は戦争準備を着々と進め、ヤルタ密約の権益を確保するために参戦を急ぎました。

歴史に「もし」はありませんが、あと半月でも早くポツダム宣言を受け入れていれば、助かった命がたくさんあったはずだと、ついつい思ってしまいます。

ところで、この「日ソ戦争」での民間人の死者は24万5千人(うち開拓民は約8万人)にも登るそうです。

けれどその戦禍は、沖縄や広島・長崎のような“国民の記憶”になっているとは言いがたいでしょう。

日本本土ではなく、満洲や朝鮮での出来事というのが、扱いに差ができた理由なのかもしれません。

けれど事情はどうあれ、戦争の犠牲者であることに違いはないはず。二度と戦争を起こさないためにも、決して忘れ去ることはできません。