えむと、メモランダム

読んだ本と出来事あれこれ

NHK交響楽団「第1954回定期公演」

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NHK交響楽団「第1954回定期公演(Aプログラム)」があり、東京芸術劇場に足を運びました。

相次いだコロナのための代演もなく、会場も空席は数えるほど。いつもの定演が戻ったようでした。

今日の指揮は、クリストフ・エッシェンバッハ。プログラムの前半は、ドヴォルザークの序曲『謝肉祭』と、スタティス・カラパノスのフルートで、モーツァルトの『フルート協奏曲第1番』。

今日のステージでまず目を引いたのが、カラパノスさんのお洒落な衣装。ポップスでも吹きそうな感じでしたが、その音色は、柔らかく、温かく、すぐにモーツアルトの世界へ誘われることに。第2楽章の抒情的な演奏と、第3楽章の軽やかさは聴きごたえがありました。

アンコールは思いがけず2曲。そのうちの1曲が「となりのトトロ」でお馴染みの『風のとおり道』。まさかの選曲で意表を突かれましたが、心に染みました。

プログラムの後半は、ベートーヴェンの『交響曲第7番』。

これまで何度も聴いている作品ですが、エッシェンバッハさんとN響が一体となった演奏はまさに圧巻。

特にヴァイオリンの躍動する響きと、チェロとコントラバスの重厚な響きは鮮烈で、今も頭の中で鳴り響いています。

演奏終了後、カーテンコールも繰り返されたのですが、団員がステージから去っても聴衆の拍手は鳴り止まず。

コンマスの篠崎さんのエスコートでエッシェンバッハさんがステージに再登場すると、さらに熱い拍手が送られました。

昨年のブロムシュテットさんが思い出されます。

『ネットで故人の声を聴け 死にゆく人々の本音』を読みました。

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読後ノート2022年No.10は、『ネットで故人の声を聴け 死にゆく人々の本音』(著者 古田雄介/光文社新書/初版2022年3月30日)

このブログを始めて5年目になりますが、「自分が死んだらどうなるのか」なんて、考えたこともありません。

本書は、『東洋経済オンライン』の連載記事を加筆修正し、まとめたもの。
「デジタル遺品」に詳しい著者が、すでに亡くなった人、亡くなったと思われる人のホームページやブログを紹介し、取材した関係者の話も交えて、故人の思いに迫っていく異色のルポルタージュです。

著者は、4千件の「故人サイト」を定期巡回しているそうですが、本書に登場するのは15人のサイト。

白血病の高校性。希少がんの大学生。スキルス胃がんのシングルマザー。筋ジストロフィーの男性。転移性脳腫瘍の空手家ベーシスト。肺がんの医師。大腸がんの書店店主…。

多くは闘病ブログですが、自殺ブログや糖尿病サイト、84歳から94歳で亡くなるまでほぼ毎日投稿が続いたおばあさんのブログなども紹介されています。

日記と違い、ブログやSNSはハンドル名で書いたとしても、人から読まれることが前提。書かれていることが真意だとは言い切れません。

けれど、死の影を感じながら生きていく人の言葉は、たとえハンドル名であっても、心の奥底から発せられるもの。

生きる意味を考え、自分を襲った運命を嘆き、残される家族を思う一方で、気力をふりしぼり何とか病を乗り越えようとし、前を向いて生きた証を残そうとする。

嘘偽りのない心情の吐露に、心は揺さぶられます。

ただ本書で一番印象に残ったのは、行きずりの男に娘を刺殺された父親が、犯人の情報入手のために立ち上げたブログ。

2005年に最初の記事をアップし、2018年に犯人が逮捕された後も、更新が続いているそうです。

事件を風化させないために、13年以上も書き続けてきた執念と、事件が解決してからも、ブログの中で娘との時間を共有し続ける父親の思いは、同じ親として胸に迫るものがありました。

本書で著者と対談している折田明子・関東学院大学教授は、「亡くなった人との関係を保持しながら亡くなった人とともに前に進んでいく。墓前に語りかけるのと同じように、訪れたら故人との絆が感じられる。そういう効果が故人のサイトにはある」と語っています。

管理者がいなくなったサイトは、生き残るのが難しいようですが、お墓代わりになるのであれば、私もこのブログのことを言い残して、この世を去るのも悪くないかもしれません。

もちろん、家族に墓参りする気があればの話ですが。

 

『東京大空襲の戦後史』を読みました。

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読後ノート2022年No.9は、『東京大空襲の戦後史』(著者 栗原俊雄/岩波新書/初版2022年2月18日)

著者は、毎日新聞の新聞記者ですが、日本の戦争責任や戦後賠償に関する著書も数多く執筆しています。

私もこれまで、『遺骨 戦没者三一〇万人の戦後史』(岩波新書)、『特攻 戦争と日本人』(中公新書)、『シベリア抑留 最後の帰還者 家族をつないだ52通のハガキ』(角川新書)を読みました。

本書は、東京大空襲の被害者救済の闘いを通して、日本の「戦後」について考えるもの。

空襲被害者の苦難の人生とともに、戦後補償裁判と被害救済のための立法運動の推移を記し、戦争被害を民間人に押し付けたままの「未完の戦争」の事実を明らかにしています。

本書によれば、戦後、戦争被害の賠償を求める裁判が何度か起こされたものの、「戦争被害は国民のひとしく耐え忍ぶもの」とする“戦争被害受任論”と、被害は認めながら、「補償の内容は国会が決めるべきもの」とする“立法裁量論”によって切り捨て。

一方政府は、「軍人や軍属は国が雇用していたから援護・補償の対象だが、雇用していない民間人は補償の対象ではない」という“雇用保障論”の立場。

東京大空襲の訴訟でも原告は敗訴しますが、原告団は、「全国空襲被害者連絡協議会」を結成し、立法による救済を目指す活動を開始。

立法を目ざす議員連盟も発足して議論が進む中、議員立法で「救済法案」が作られ、2021年の通常国会で提出の手前まで行きます。

ところが、政府・自民党は「戦後補償問題は解決済み」という立場を崩さず、また「他の補償問題に波及する」という懸念から、法案の提出は見送られ、しかも議員連盟の中心であった自民党の河村建夫・元官房長官は政界を引退。

結局、空襲被害は救済されることなく、行政、司法、立法から見放された状態が今も続いています。

空襲被害者の味わった辛苦は胸に迫るもの。戦後77年経っても、その苦しみが消えていないことに心が痛みます。

国が戦争責任を認め、戦争被害にしっかり向き合い、せめて謝罪でもあれば、裁判など起こすこともなかったかもしれません。

けれど、戦争責任は曖昧のまま、軍人・軍属には補償がある一方で、民間人は我慢。そして、同じ爆弾なのに原爆だけは「特別」で民間人も補償。

これでは、被害者でなくても「不条理」だという思いが募ってきます。

本書によれば、戦勝国のイギリスやフランスだけでなく、敗戦国のドイツも民間人の戦争被害に対し補償を行っているそうです。

戦争のけじめをつけないどころか、「民間人の戦争被害は補償しなくてもいい」という理屈がまかり通れば、誰も責任を取らない戦争が、再び起きてもおかしくはありません。

でもそれは絶対に許されないことであり、あってはならないことです。

「このままでは、日本の歴史に取返しのつかない汚点が記されてしまうだろう」という著者の言葉を噛み締めました。