えむと、メモランダム

読んだ本と出来事あれこれ

『密航のち洗濯ときどき作家』を読みました。

読書ノート2024年の5冊目は『密航のち洗濯ときどき作家』(文 宋恵媛・望月優大 /写真 田川基成/柏書房/初版2024年1月24日/装画 木内達郎/装丁 小川恵子)。書店で目にして、手に取りました。

本書は、1911年に朝鮮・蔚山で生まれ、日本で洗濯屋などの仕事をしながら、作家としても活動した尹紫遠(本名 尹徳祚)の100年を超えるファミリーヒストリー。

在日朝鮮人文学の研究者である宋恵媛氏と、ウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』の編集長を務めるライターの望月優大氏が、尹の残した作品と日記、尹の長男・長女への取材を通して尹と家族の人生をたどるとともに、植民地下の朝鮮人や在日朝鮮人が直面した様々な困難と、その背景にあるものを書き記しています。

作家といっても無名に等しく、残した作品もごくわずか。本書を読まなければ、尹の存在を知ることもなかったはずです。ところがその人生は、思いのほか波乱に満ちたものでした。

12歳の時、横浜の兄を頼り単身で渡日してからの苦難と苦学。徴用を逃れるために朝鮮へ逃亡。「密航」での再渡日とその最中に起きた妻との離別。名門一族出身の日本人女性との再婚。貧困から抜け出すため開業した「洗濯屋」。いつまでも楽にならない暮らしと妻との軋轢。そして53歳という若さでの病死。

本書の装画のイメージとは違い、尹を取り巻く世界はいつも厳しく、容赦のないものだと思い知らされます。

生きていくのが精一杯のはずで、作家などいつやめてもよさそうですが、尹は一日の仕事が終わった深夜に執筆をしていたとのこと。そこまで作家にこだわったのは、書くことが日本で生きていくための拠り所だったからかもしれません。

それにしても、本書で紹介されている尹と家族の苦しい生活ぶりや、朝鮮の人々を襲う理不尽な仕打ちと謂れのない差別・偏見には心が痛みます。

妻は出産直前で自ら売血の列に並び、子供は弁当を持たず学校に行く。洗濯の営業に行っても人間扱いされない。自分たちの意思と関係なく国籍が決められていく…。

多くの日本人にとっては、ほとんど縁のない話だったかもしれません。けれど日本の社会には、尹やその家族と同じような境遇に置かれた人たちがたくさんいたはずであり、その重い事実から目をそらすことはできません。

尹は戦前、『ひそやかに人等語れば我を追ふ話なるかと心尖りし』(尹徳祚『月陰山』)という短歌を詠んでいます。

尹の悲痛な心情が胸に突き刺さり、国家のエゴの罪深さを噛みしめました。